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旧 なんかのたまご

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「自由」な行為はほんとうに自由か

認知心理学者の下條信輔氏による「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」という本に、こういう前説があります。

「ひとは、自分で思っているほど自分の心の動きをわかっていない」

これを、中心ドグマとして講義をしていきますよ、みたいなところからはじまります。(この本自体が、東大の教養課程で講義していた内容をまとめたもののようです)そして、次回以降の講義についての予告のような部分がでてきます。これがとてもおもしろい。

サブリミナル・マインド ― 潜在的人間観のゆくえ 下條 信輔 - YouTube 27:40

この前説で、下條氏は、人間観には大雑把に2つの極がある、ということを簡潔に述べています。

まずひとつは、人間には自由意志があり、100パーセント自分の意思ですべてを選択、決定していくことが出来るという考え方。だからこそ罪を犯せば罰を受けるのは本人であるし、行いの責任を取るのもすべて自分自身と。近代民主主義社会の根幹や、いまの時代人口に膾炙している暗黙の了解となっている捉え方がこちらにあたるということなのでしょう。

もうひとつの極は、人間機械論、ライプニッツの予定調和説、神の見えざる手、マクスウェルのデーモン。人間は予め決められたとおりに動くだけでありどのみち環境の影響からも逃れることはできない、みたいな思想。これらにも長い歴史があり、支持されてきた考え方であると。


2014-02-23 11.49.05
「自由」な行為はほんとうに自由か

「さて、私がこの本でこれから述べようとすることは、たいへん認めにくい、やっかいな主張なのです。それは、こんなことです。まず揺るがし難い事実として、最前線の人間科学は、進めば進むほど心の潜在的過程の存在をあらわにする。ところがこの潜在的過程の考え方は、現代生物学のほかの決定論的潮流ともあいまって、先の機械論的考えに加担し、人間の自由意志の尊厳と、それにのっとった社会の諸々の約束事を、根底から覆しかねない。とりわけ、それは倫理的に困難な問題を我々に突きつけている……。」


なんで突然この本のことを思い出したかというと、今朝こんな文章を読んだから。

ワタシ自身が長い間、能動至上主義みたいになっており、玉石混交であるコトを前提に、自ら選び取った情報の海にぷかりぷかりと漂っているコトに心地よさを感じてきたフシがある。

しかし、その選択自体、果たして真の能動なのだろうか。選択肢は意外に有限で、限りのある中から無理矢理選ばされてるだけのような錯覚にも時折陥るのだ。錯覚か?
browneyes :: more than 140: 受動が生み出す偶然の出会いと能動による取捨選択 より引用


錯覚か?

どうなのでしょうね。

わたしもわかりませんが、ネット上のアレコレを整理して最小限のアウトプットに留めているつもりでいるにもかかわらず、「自分」に興味を持ったり「自分の肉体や意識」がここにあるとしっかり自覚している実感が減っているような気がしています。

これはネットに依存気味だった96年~からずっと変わっていなくて、ずいぶんとコントロールが上手になったいま現在でもそうです。自分で能動的に情報を探してアクセスして、それを読んでいるのはほかならぬ「わたし」。それが「わたし」という人間が他のひととは別個の存在であることをよりくっきりと実感させてくれる。(ような気がした)

でも、今思えばそれは能動ではなかったのかもしれません。「わたし」が「わたし」であると深く実感することから遠ざかる行為だったのかもしれません。

まあ、ネットばっかりやりすぎな時点で度が過ぎていたからっていうのもあるんでしょうけど、ともかくいまのようにTwitterやTumblrで流れてくる情報、ニュース、みたいなもの、ほんとうにほんとうに見なきゃ生きていけないのか?という気持ちになるときはあります。実際。


2014-02-02 21.03.12
群れに所属しなくなった生き物は死ぬ


昔、Twitterを交差点にたとえたことがありました。たくさんのひとと一瞬すれ違う。その中にキラっと光る、自分にとって価値のある、目を引く存在が居たりする。

そのひとに声をかけるのも、かけないのも自由。

誰かと約束を交わしてここで会おう、と決めるのもアリ。

ただただ飄々と歩き続けるのも立ち止まるのも楽しい。

そんなふうに思っていたことがありました。


でもねー、ぶっちゃけ最近は「交差点の雑踏」というよりは「人間の群れ」みたいに見えるように変わってしまいました。変わったのはわたしの心なのでしょう。

予めプログラミングされたとおりの動きを延々繰り返している人間という有機生命体の群れがいるーというふうに思ってしまい、自分もその中のひとつでありこうしてキーボードを叩いていることすらプログラミングされた時点で埋め込まれた衝動みたいなものに動かされている受動的な状態かもしれないのだよな、などと思う瞬間があります。

わたしの脳内フィルターがおめでた全開のときは全然違う見え方のときもあります。「人間ひとりひとりが素晴らしい!」みたいな。(笑)

だからなんだ、っつー話なのですが、サブリミナル・マインドという本、前説しか読んでいないのでちょっと本編も読んで、またなにか思うことがあったら書くかもしれません。


サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
by カエレバ
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